バベルの塔
2018年10月6日
もう何年も前の話で、誰だったかは忘れてしまったが、インドの建設現場を見た時に、「ほんとバベルの塔みたいだよね。」と言ったのを思い出した。
鉄骨なさそうとか、安全装備つけてない村人達が作業してそうとか、日焼けと乾燥で変色してそう、とか、見たままこんな感じで、ちょっと笑ってしまったのだが、
今改めて周囲を見渡すと、つくづく言い得て妙だなと思う。
バベルの塔の物語は、
「1つの言葉を話す人間が相談・結束し、神の教えに背く塔を建てようとしたため、神が言葉を乱した。人間はお互いに意思疎通が出来なくなったので散り散りになってしまった。」
という事だが、
インドでの「言葉」の問題はというと、言語の、というよりは、認知の仕方や概念の違いが根底にあるものが多い。
多様性といえば聞こえが良いが、近代社会という枠組みの中で仕事をする、という状況下では、
「秩序」、つまり、アニミズムを脱却し、自然から人間優位の世界に転換させたキリスト教、
特に近代工業の基礎となったプロテスタント派の規範を下敷きとする秩序、
を守らなければならない(事を教えないといけない)事が問題の本質である。
例えば、工場の中では、安全や生産性を担保するのは機械の神様ではなく、ルールを守る事によってだ、という考え方を一致させる必要があるのだ。
そもそも製造業に身を置いていると、(少なくとも産業においての)モノづくりとは、クリエイティビティとかイノベーションとかいった華々しく天才的な事ではなく、この観念の一致なのだ、と思える。
素材にしろ工程にしろ、段階ごとに全て、物理的あるいは心理的な規則に沿って、すべき事(OK)とすべきでない事(NG)に分けられ、それが重なって一つの形を作っていく。
加えていえば、すべき事の中にも更なるすべきでない事を見出し排除していくのが合理的とされ、日々そのために人や物の研究を重ねる、というのは、
それは単なるルーティン作業の為ではなく、ある種、求道的とも言えるのではないだろうか。(実際に見ると言い過ぎだけど。)
正直なところ、最近のインドは、にわかのブーム(将来への期待感?)により人々が浮足立ち、こういった秩序が浸透されないまま、うわべだけが動き出しているように見え、
そのアンバランスさから、いつかはバベルの塔みたいに未完で終わってしまうのではないか、と思える時がある。
「才能はキャリアを超えない」というのは茶道の先生がよく仰っていた言葉で、
若い人は物覚えが良いが、先輩方のふとした所作のしっくり感には及ばない(から、自分の方が上だと思うなよ)。
という意味だが、このしっくり感こそ、今のインドに必要なのではないかな、と思う。