結局のところ「教養」とは(自分への備忘録として)
2018年9月13日
このまま無かった事になりそうだったブログだが(約120日ぶり_(:3 」∠)_)、 オーストリア大使公邸で行われたチェロのコンサートに行ってきた。
道連れは、インド在住10年を超えるM氏だ。
M氏はゴルフも嗜むし、某アイドル集団にも推しがいるという
(M氏の名誉?の為に断っておくと、おじさんとしての自覚を持ち、節度ある立ち位置で応援をされている。)、
一見すると、やや悪い意味での「おじさん駐在員の典型」みたいなお人だが、その実は根っからのクラオタ(注:クラシックオタクのこと)で、夢は世界の有名歌劇場制覇である。
私がM氏をすごいと思う理由は、氏のクラシック音楽にハマった理由が、
「自分は譜面も読めないけれども、中学ぐらいの時に聴いて綺麗だと思ったから。」
だからだ。
そこには「高尚」とか「一流」とか、意識高い系ワードが付け入る隙が一切なく、却って氏の感性の豊かさを際立たせている。
そして、純粋に好きだからこそ、飽きもせず毎日の時間にそれらを取り入れ、日常だからこそ、それがその人の土台となっている。
別にクラシック音楽だから、とかアートだから、とかではなく、別に仕事でも良いのだけれども、
何か一つでもそういった物を自分の血肉にしている人は話をしていても独特の説得力があり、
この説得力こそが、「教養」という事なんだろうなあ、と思う。(完)
(完)…なのだが。
最近、いろいろな国の出身の人と知り合う機会が増えて思うのは、
なぜ、いろいろな国の歴史や文化を知ってる必要があるのか、←これも教養っていうよね。というのは、
人に会う時には、相手の出身国の背景や個人情報(年齢や性別など)を組み合わせて、その人の懐具合を的確に判断しないといけないから、
という事だ。
ほんの過去30年をとっても、急に成長したり、衰退したり、システムが変わったり、まだ国として存在してなかったりなど、お国事情は様々である。
相手の能力や立場を尊重するからこそ、「値踏み」をきっちりしなくてはいけない。
こちらに悪気なく、より良い関係を築きたいと思っていても、お金に関する事で相手に恥をかかせるような事があればもう次はない。
因みに、「小国」の出身だからといって、こちらが裕福だとは限らない。そういう国から来た人こそ貴族みたいな人とかいる。。
従って、「教養を高める」というと、質の高いものを追求する、といったイメージになりがちだが、
結局のところは、幅の広いレンジで選択肢をたくさん持つ、という事になるのだと思う。
そして、大概の場合では相手の方がこういった事情に敏感なので、その選択肢について説得できる力をつけなければならない。
そのためには、本質と付加的な価値の境目を見極められる事、どこからどこまでが自分の主体で「良い」と思って、どこからどこまでが他人によって「良い」と思わされているのかをしっかりと把握する事である。
純粋な好みで土台がしっかり作られている人が強い、と思うのはこういう時の判断基準にブレがないから、という事なのである。