映画と人種とプロパガンダ
2018年2月19日
インド人の友人夫婦からお誘いがあり、サケットセレクトシティウォーク 内にある映画館に「ブラックパンサー」を観に行った。
「ブラックパンサー」は、マーベル・コミックの実写化映画の最新作で、
高度なテクノロジーと特殊な資源を有する「ワカンダ」という国に即位する、新国王ティ・チャラ(ブラックパンサー)の物語である。詳細はこちら→ ブラックパンサー (映画) - Wikipedia
映画はIMAXシアターで上映され、広くて綺麗で明るい、映画館というよりはコンサートホールにいるような風情の中、
ゆったりとした革張りのシートに沈み込みながら、
最新のVFXや音響、華麗なアクションを存分に堪能し、
「やはり、こういった映画は新しい内に、映画館で観るべき!!」
と思っていたころ、
誘ってくれたインド人友人の観ているものはこんな感じだった。。
注意:後半ネタばれになっている箇所があります!!
blogs.timesofindia.indiatimes.com
ネタばれにならない所から少しピックアップすると、
・遥かに進んだテクノロジーと特殊な力を持つ資源に恵まれた「架空の」都市、ワカンダがアフリカ大陸の内部に隠されている、という所から、
「もし」制圧や植民地化がなければ、アフリカの国々はどういった発展を遂げていただろうか、という事。
・高度に進んで、豊かなワカンダにおいて、自国の治安や富を守るために排他的な行動を見せる部分が、現実の世界で起こっている問題にオーバーラップしている事。
・「架空の都市」ワカンダでの、テクノロジー(近代化)と伝統的魔術(土着の文化、民族の伝統)との結びつきについて。
・メジャー大作の映画での、アフリカ系のキャスティングについて。
などなど。
…ふと思いだすのは、2001年に公開された「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」という映画だ。
当時、私はアメリカでホームステイしていたが、9月11日に同時多発テロ事件が起きた。
その後、毎日ニュースで流れるカッコつきの‘’世論‘’では
「テロリストに(および、それらが潜んでいる地域に)報復すべき」の向きが強く、
映画やドラマの中でもヒーローや官軍が
「今こそ平和の為に立ち上がり、共に戦おう!」と演説するシーンがたくさんあった。
そんな中、この映画は「戦うのではなく、結束しよう」ということを、
さっぱりと、それでいて力強く伝えている素晴らしい内容で、
とりわけ、劇中に強烈に美しく、セリフもないのに力強いメッセージを放ってくる一場面があり、それがとても印象に残っている。
ただしそれを理解するには、登場人物の関係から、この一家が人種の坩堝たるアメリカ合衆国の比喩だ、という事に気づかなくてはならない。
父親:ユダヤ系白人、法律家、ワンマン、頑固、家族から煙たがられている
母親:イタリア系移民、考古学者
長男:ビジネスの天才、2児の父親(離婚)、アディダスジャージ着用
長女:天才戯曲家、養女、バイセクシャル、離婚と再婚を繰り返す
次男:天才テニスプレイヤー、姉に片思い
執事:インド系
会計士:アフリカ系、母親に求婚中
隣人:陽気で楽しい友人だが、ちょくちょくトラブルを持ち込んでくる
初見時、なぜこの映画が絶賛されたのかが分からなかった。
そして、日本でのこの映画に対するレビューも、
大半は「おしゃれサブカル(を狙って失敗した)映画」という内容だった。
人種問題やマイノリティ志向についてピンとくる、つまり、いつも頭の片隅にある、というのは多民族国家で生まれて育って身につけたセンスの賜物で、大半の日本人には難しい事だと思う。(インドも本質的には多民族国家だし。)
しかし、常時そういう意識がある、という事は、それに対してスマートに対処できる術があるという事だ。
差別や迫害といった大きなことでなくても、日常の何気ない会話や振る舞いの中にも、バックボーンが違えば誤解を生んでしまいかねない事はたくさんあり、
最低限のエチケットとして気を遣うべきポイントがある事を、多民族国家で育った人は弁えている。
洋の東西を問わず、歴史的にプロパガンダに使われやすかった映画という媒体においても、
昨今では、ヒーロー同志が自分の正義を通す為やむなく対立し、戦いを続けていく事に苦悩したり、
ヴィランと呼ばれる悪役のキャラに厚みをもたせて人気を博したり、
今度は多様性を宣伝する方向に動いている。
今は映画を通して、グローバル化の感覚を身につける事が出来る、絶好の時なのかもしれない。